経筒・経塚とは
書き写した経典を入れる容器を経筒と言い、その経筒を地中に埋めた所を経塚といい、その多くは銅製です。
11世紀に入ると日本の各地で行われましたが、末法思想によるものとされています。末法とは、仏教では釈迦入滅後に正法・像法・末法の世が来るといわれ、平安時代の後期に末法の世となりました。当時は大和の長谷寺や興福寺が焼失するなど、これまでの貴族社会が、武家の台頭に脅かされ、騒然とした時代でした。
日本では永承七年(1052年)に末法の世が始まったとされ、この世を尊ぶ密教から、あの世を尊ぶ浄土教の時代へと移っていきました。
人々は、極楽浄土に転生できるように願い、釈迦入滅後の56億7000万年後に、この世に弥勒菩薩が下生するまで経典を残そうと考えました。法華経を書写して地下に埋納する経塚供養は、阿弥陀如来の膝元に生まれかわるための作善として行われました。
都市八幡宮経塚
都市八幡宮経塚は、沼口の都市八幡宮の境内にあり、経筒は沼口の法蓮寺(ほうれんじ)に保管されています。
昭和32年8月16日付けで、福岡県の有形文化財に指定されています。
発見の経緯は伊藤常足(いとうつねたり)編纂の『太宰管内志』に記載され、伊藤熊雄(いとうくまお)が追録しています。
それによると1度目の出土は天保年間、2度目の出土は明治19年です。それぞれ2口ずつの経筒が発見されています。有形文化財の指定件数も4点になっています。ところが、詳しく観察してみると、経筒三口と、ふたのみになることがわかりました。
節をもつという筑前地方の形式を取りながらも、ふたなどに求菩提山や国東地方の形式も見られ、豊前地方との交流があったことを物語っています。経筒の表面には銘文が刻まれていて、判読したものを若宮町誌に掲載しています。また、経筒に納められたと考えられる経典も残っています。