映画の中でも汽車の駅に急ぐ女の人がいた。発車のベルが鳴り響く。女の人は懸命に走った。汽車は動きだした。間に合って良かった。子ども心にそう思った。女の人は乗らなかった。後は記憶にないが、映画館を出て女の人を詰まり母親の機嫌を損ねた?幼子の記憶の始まりは『愛染かつら』からか、これより前の出来事の記憶はない。
幼少期の記憶はまるで一枚の絵ハガキに似て、断片的だが今でも鮮明に残っている。
我が家は七坑(飯之倉)で店を営んでいた。家を目指す時、起点はなぜか長井鶴ならぬ羅漢橋と記憶している。
川を挟んで瓦工場があり、その先に頑強なコンクリートの橋と坑木を運搬する蒸気機関車を見た。やがて右方にどでかい煙突や別府の湯煙りに匹敵する坑内から吐き出される排気。全面の視界を総て遮る鉄骨の建造物、その中を立体的に走るトロッコと六坑(長井鶴)の中枢が屯在していた。雄叫びに似たごう音を過ぎると、一転して長閑な微粉炭の家庭用燃料工場が広がり、無事の通過を喜んだ。
エンドレス(トロッコ)の軌道をまたぐと美人姉妹で高名な床屋がある中を「チラッ」とのぞいて、当時としては大変に珍しいコンクリートで整備された道路を歩く。
新七坑・七坑へとエンドレスと生活道路が幾度と交差を繰り返し続くが、途中には藤田軽音楽団・松尾ダンシングチームが活躍した殿堂六坑会館に通じる道や食の要の配給所、下駄屋、豆腐屋などが点在した。
目の前を中途半端な高さの陸橋がある。通学路でもあり、渡り終えると立石区で高台に縄工場があった。
新七坑は深夜も照明で明るく、その先の墓場を一層暗くしてしまった。
墓場前通過は相当の覚悟と決心を要する最大の難所であった。すぐ後ろを不気味な足音が迫ってきた。墓場だからボチボチ歩けば恐怖心は和らいだかも、でも一刻も早く逃げ出したい気持ちが優先した。
墓場の前を流れる川は、時として洪水ではんらんを起こし行く手をふさいだ。
だが、スコップだけでの人力で堤防拡張工事が成された。向かいの学校に渡るための踏み板が短くなり、新調された。洋服の仕立て屋さん前までたどり着いたあとは、馬納屋の明かりを目指して一目散。
七坑の広さは寸法では言い難い。馬納屋・ガード・駐在所・配給所・床屋そして大きな柳の木のある堤(ため池)までアイスキャンデーを持って走って、芯棒に栄養失調気味の氷がしみついている位の広さはあったと思う。
我らを育み育ててくれた七坑。荒廃し廃墟と化した七坑。みるに忍びない。でもありがとう。
※このページの作文・写真は、広報みやわか平成22年9月号の「宮若探訪」で掲載したものです。