貝島技術学校十三期生として、昭和34年に卒業してから半世紀近くになる。会社人生を終えて、技術学校教育の有り方がいかに大きかったかを今思っている。
わずか一年間の学生生活ではあったが、教育方針やモットーなどによって、その後公私にわたり多くの余慶を得た。ことに企業で最も重要な、「決められたルールを守り、守らせる」という基本はこの時に植え付けられたと思う。
その教育方針は、決して非寛容ではなかったが、「ゼロトレランス(ルール違反を見逃さない厳格教育)」であった。その他「職場においてなくてはならぬ人になれ」とか、「負けじ魂を出せ」とのモットーに随分と勇気付けられた。
その学舎も十六期生を以って閉ざされたが、昭和51年の閉山に至るまで、多くの卒業生が新たな任地を求めてこの地を離れた。炭鉱以外の新たな職場では、一年限の貝島技術学校出身では何ほどの事もない冷徹な現実を皆、体験したはずである。
しかし、かえって負けじ魂に火が付き、さらなる向学心を燃え立たせた体験記は、本文集でも多く目にするところである。逆の見方をするならば、その逆境を飛躍の足掛かりにしていく、いわばスパイラルアップの起点を得ていた事になる。
以下そのような教育方針の徹底振りを示す自慢話をお許し願いたい。
つい最近同じ団地のご婦人と幾度か話す機会を得たが、このご婦人が大之浦中学校在学中に、掃除の勉強で技術学校に出掛けられた時の思い出話をされた。具体的には、板廊下に人の姿が映るほどであったのを見て皆、驚いたとのことである。引率した担任の言葉は「成せば成るのだ」とかであったという。
幾十年か後に永平寺にお参りされた時の磨き抜かれた廊下を見て、瞬時に「技術学校の廊下を思い出しましたよ」と言われたのである。十五期生当時のことである。
今一つ、在学中に広瀬淡窓の咸宜園を見学した折、軒先で品のよい中年女性に由来などの長い説明を受けていた時、我々六十余名の粛然とした聴講態度にいたく感激されたことを覚えている。前日に見学した高校生の余りの私語の多さに、館長が遂に堪りかねて怒鳴ったことと対比させて言われたが、我々には人の話は黙って聞くものだというルールが徹底していたのだ。
最後に私の結婚には恩師に仲人の労をお取り頂いたが、それから二十五年後に工場を受け持っていた時、学卒の技術員として配属されてきた恩師のお孫さんと一緒に仕事をする偶然まで得た。
私も夜学に通ったりしながら、家族や多くの人達の助けを得て、会社人生を無事に終えることができた。無事これ名馬というが、技術学校教育の薫陶を得て、駄馬も変わりえたとすればそれが最大の余慶である。
※このページの作文・写真は、広報みやわか平成22年4月号の「宮若探訪」で掲載したものです。