若宮八幡宮三十六歌仙絵
昭和60年(1985年)、若宮八幡宮に所蔵されていた三十六歌仙絵が、江戸時代初期の風俗画家で「浮世絵の祖」といわれる岩佐又兵衛勝以の作であることが判明しました。長い間、若宮八幡宮に伝わっていましたが、昭和35年(1960年)から当時の若宮町役場の金庫に保管され、昭和60年の鎮座八百年祭のおりに初めて公開されました。
その時、湯原の小田稔氏がその画風に注目し、福岡市美術館学芸員中山喜一朗氏に調査の依頼をしました。又兵衛の作と断定した理由は、「勝以」の丸印と「道薀」の角印が他の又兵衛の作品と一致していることと、ほほが豊かで、あごが長いという又兵衛特有の作風だったからです。
以前は折本として表と裏に表装されていましたが、現在では一枚ごとに表装されています。大きさを平均すると、縦21.6cm、横33.1cmで、左右18枚それぞれ歌合わせの方式をとっています。
歴史的、美術的、さらには作者岩佐又兵衛を知るうえでも貴重な発見であり、現在、宮若市の指定有形文化財となっています。
原本は現在、福岡市美術館に寄託されています。
三十六歌仙絵とは
歌人の肖像画に、その歌人が詠んだ和歌を書き添えたもので、平安時代中期から盛んになりました。室町時代末期ごろから、神社やお寺に扁額として奉納する風習が始まり、宮若市内でも山口八幡宮、黒丸の六社八幡宮、高木神社に三十六歌仙絵が掛けられています。
作者 岩佐又兵衛と伝来の経緯
作者岩佐又兵衛は、天正6年(1578年)、摂津国(現兵庫県)の伊丹城主:荒木村重の子として誕生しました。父村重は織田信長に仕えていましたが、謀反を企てたため伊丹城は攻め落とされ、脱出した村重はその後、茶人として秀吉に仕えたといいます。残された家族や家臣が処刑される中、当時2歳だった又兵衛も脱出に成功し、その後信長の子に仕えますが、武門の再興をあきらめ、母方の姓、岩佐を名乗り画家となりました。
又兵衛は絵師として、京都、福井、江戸で活躍しましたが、その又兵衛の作品が九州の若宮に伝わった経緯は、松平忠直豊後配流説。黒田藩奉納説。黒田家家臣荒木一族説。左女牛若宮伝来説など、諸説あります。